2021年が終わろうとしていますが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
クリスマスが近づくと、街はにぎわい、さまざまな場所がイルミネーションで彩られます。仕事帰りにライトアップされた景色を見て、癒されている方も多いのではないでしょうか。
六本木ヒルズや東京ミッドタウンなどはもちろん、表参道や東京駅などの街路も美しく光輝きます。
六本木ヒルズを運営する森ビル株式会社の創業者である森泰吉郎氏については、以前このブログで紹介させていただきました。東京ミッドタウンを運営する東京ミッドタウンマネジメント株式会社は、三井不動産株式会社が100%出資しています。
気になって三井グループの実業家の方々について調べてみました。その中から今回は、三井グループの商社である三井物産株式会社を創設した益田孝氏について紹介します。
益田孝氏の経歴
益田孝氏は、1848年10月17日に新潟県の佐渡で生まれます。幼少期は佐渡で過ごし、1855年に函館へ移住しました。
益田孝氏は少年のころから非凡なところをみせていて、12歳で江戸へ出府しました。14歳の時に通訳となり、1963年に遣欧使としてヨーロッパへ渡航します。
現地ではパリで50日間過ごし、皇帝だったナポレオン三世と謁見します。パリはその当時でも下水道が敷かれていて、街灯なども整備されていました。その渡航経験が、三井物産株式会社の海外展開にも影響したとも言われています。
帰国した後、1968年に大政奉還がおこなわれ、260年以上続いた徳川幕府が終わりを迎えました。そして、益田孝氏は武士から商人になることを決意します。
次は、益田孝氏が創立した三井物産株式会社について紹介します。
三井物産株式会社について
三井物産株式会社の礎となる会社は、1876年7月1日に創設されます。当時、三井の大番頭を勤めていた三野村利左衛門氏が益田孝氏をヘッドハンティングして、最高責任者にしました。三井物産という名称は、益田孝氏が名づけています。
三井物産株式会社は今や資本金が3,400億円以上(2021年9月30日現在)の大企業ですが、当時は、従業員数17名のベンチャー企業でした。そこから事業所数が130拠点、従業員数が5,587名まで規模を拡張させました。
創業当初の柱は、石炭でした。福岡県の大牟田市にある三池炭鉱が飛躍のきっかけになりました。三井鉱山、三井物産、三井銀行は連携して業績をあげていきます。
その後、現在の三井物産株式会社が1947年7月25日の設立されます。それから、総資産が12.5兆円になる大企業へとなりました。
大志をもって仕事することが大事
益田孝氏は、三井物産株式会社の前身となる会社を創設した同じ年に『中外物価新報』を創刊しています。これは、現在の日本経済新聞のルーツとなるものです。益田孝氏は、このこのから情報の重要性に気づいていました。商業上の知識を普及する新聞を作るという大義のもと、中外物価新報を日本経済新聞へ昇華させました。
また益田孝氏は三井物産について、以下のように語っています。
「三井物産会社を創立したのは、大いに貿易をやろうというのが眼目であった。金が欲しいのではない、仕事がしたいと思ったのだ」
益田孝氏の業績をみると、自分が仕事で何を成し遂げたいのかを明確にし、かつビジョンを大きくすることが大事なのだと学びました。
私も大きなビジョンを描いて、それを達成するためにやるべきことをきっちりとこなしていきます。