赤坂・六本木地区を開拓し、東京を世界の街へ

昼も夜も繁華街として賑わっている赤坂・六本木地区。
毎日多くのビジネスマンが行き来しています。
そんな赤坂・六本木地区は江戸時代のころはお屋敷が多く、そのあとも住宅街でした。
その土地を開拓していったのが、森ビル・森トラストの創業者・森泰吉郎です。
彼は、西新橋で育ち米問屋と貸家業をしている両親のもとで育ちました。
一橋大学を卒業後、大学の教師として活躍。
55歳という年齢で大学の教師をやめ、あと継ぎで森ビルの社長となりました。
社長となった泰吉郎は、関東大震災での経験や教師時代の恩人の教えを守り、今でも続く森ビルの経営哲学を創っていきました。
不動産業で大事なこととして「信頼関係」と「土地」を挙げています。
なぜ泰吉郎はその2つが大事と思ったのか、エピソードを紹介していきます。
関東大震災で土地喪失のピンチ。信頼関係で切り抜ける。

貸家業を営んでいた泰吉郎の両親は、持っていた土地を失う危機がありました。
そのきっかけとなったのは、1923年にあった関東大震災です。
関東大震災で多くの家が全焼・全壊をした結果、多くの人が家をなくしました。
そこで政府が出した救済処置として、借家に住んでいた人は、そこに家を建てて、自分の土地にしてもよいという借地借家法の臨時処置をおこなったのです。
もちろん泰吉郎の家もなくなり、両親の米問屋もままならず廃業。
そして、自分たちの土地もほかの人の手に渡ってしまうかもしれないという、弱り目に祟り目の状態。
しかし、今まで住んでいた住民に、
「新しい住居を建ててそこに住んでほしい。」とお願いをしたところ
「いままで森さんにお世話になってたから、これからもお願いします。」
と逆にお願いされるほど信頼関係を築けていました。
不動産業では、まず土地がなければ商売ができません。
そのためには、大きな震災にあっても助け合える信頼関係が必要だと泰吉郎が気付けたエピソードです。
土地を広げて、東京の街づくりを目指す

出展:森ビルHP アークヒルズ
関東大震災後も土地を広げていきましたが、第二次世界大戦で多くのビルが倒壊。
それでも、東京の土地価格はどんどん上がっていくと予測し、多くの不動産を一極集中で買っていきました。
その予想通り、インフレで土地価格は上昇。負債を恐れず土地を購入していったことが功を奏しました。
そこで泰吉郎は満足せず、ビルを建てるだけではなく、街づくりを主体とした都市計画を考えていきます。
一番最初に手がけた、赤坂にある『アーク森ビル』が一番最初の複合施設。
オフィスだけではなく、飲食店も並ぶ商業施設として運営。テレビ朝日の施設や森ビルブランドのマンションも近接しており、その場所一帯を通じて街づくりをしました。
建設する前は、
「森はこの街をつぶす気か!」「俺たちはお前の計画になんで乗らないといけないんだ!」
など、近隣住民から猛反対にあいました。
しかし、泰吉郎は自分が描く街づくりの想いを伝え、住民たちを説得した結果なんとか着工となりました。
今では赤坂のシンボルとなるような建物となり、欠かせない存在となっています。
東京をもっとよくしたい。
そして、ここまでお世話になった人にしっかりとお返しをしたい。
そんな想いが泰吉郎のビジョンを大きくさせたのではないでしょうか。
信頼を大事にして、これからも幸せな街づくりを

泰吉郎は森ビル・森トラストといった会社を創業しただけではなく、住民と一緒に街づくりをしてきました。関東大震災で被災したことや、そのときの人との関わりがあったからこそ、大きなビジョンを描けたようです。
泰吉郎が築いてきた信頼関係をこれからも大事にして、みんなが幸せになる街づくりが日本全体に広がっていくことに期待しています。そして、東京が世界に羽ばたく都市となるように応援しています。