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実業家の考え方

逆境を乗り越えて、家具業界のトップに立った似鳥昭雄氏

先日、柳井正氏と寺島実郎氏の対談のレビューをさせていただきました。寺島実郎氏は、柳井正氏の他にも数多くの著名な方々と対談しています。今回は、似鳥昭雄氏との対談を見た感想を中心に、その他の対談動画を視聴した所感も踏まえて、似鳥昭雄氏について紹介させていただきます。

衣料と家具、ジャンルは違いますが共通点は多くあります。生家は会社経営をしていて、ご本人は違う事業で成功している。共にアメリカ合衆国に視察にいったことが転機になっています。もちろん、年齢が近く、時代背景が同じであることは要因の1つだと思います。
さらに共通点をあげると、既存の商売形態を見直して、企画/製造/販売を一気通貫で行うビジネスモデルを開発したことです。当時、家具業界は衣料業界と同様に、商社などの卸業者から品物を仕入れて販売するというスタイルでした。

現状を分析して、未来を見据えて行動する。その分析力と行動の速さが成功の要因の1つなんだと感じました。私も情勢の変化を敏感に察知して、変化し続けます。

似鳥昭雄氏の生い立ち

似鳥昭雄氏は、1944年にサハリン、旧樺太で生まれました。創業から右肩上がりの成長を続け、2022年2月期には8,115億円の売上高を計上する企業の創業者です。幼少のころから、エリート街道をまっしぐらみたいな人生を想像してしまいがちですが、実はそうでもありません。1962年に札幌短期大学に入学しましたが、学生時代の成績はよくなかったそうです。大学の編入もご経験されていて、2年後には北海学園大学へ籍を移します。卒業後に会社員になりましたが、そこでもうまくいかず、1年で2回もクビを経験したそうです。そこから奮起して、23歳のときに家具店を開業します。それが株式会社ニトリの前身となる似鳥家具店です。24歳の時に、ご結婚もされています。次は、似鳥昭雄氏が創業した株式会社ニトリについて紹介させていただきます。

株式会社ニトリについて

1967年12月に似鳥家具店を創業します。その後、店名が似鳥家具卸センター北支店となります。2号店を出店する前の話で、1つしかないお店が北支店です。その後、1971年に2号店を出店することとなりました。ただ、このころは業績が芳しくなかったそうです。売り上げが60万円で収支がゼロのところ、40万円しかなかったこともあったそうです。奥様が商売上手で、夫婦二人三脚で乗り切りました。奥様が店頭に立ち、昭雄氏が商品の仕入れをする、という役割分担で業績をあげていきます。その時に、顧客の購買するポイントが低価格だと気づきます。

2号店を出店しましたが、ライバルの大型店が近隣に出現したため、売上は大きく落ち込みました。顧客はライバル店に流れ、経営は立ち行かなくなります。失意のどん底でもがき苦しんでいた時に、状況を打開するためにアメリカ合衆国に研修に行きました。そこで、衝撃を受けます。販売されている家具は日本よりも美しくて豪華、にもかかわらず価格は3分の1以下でした。似鳥昭雄氏の魂に火がつき、そこから奮起します。

社名が現在の「株式会社ニトリ」になったのは、1986年7月です。そこから、戦略的にアジアへ進出します。まずは、シンガポールです。1989年3月に現地法人「NT SINGAPORE PTE LTD」を設立します。2004年は、より動きました。まずは、3月に中華人民共和国の上海に「平湖物流センター」を開設します。10月は、シンガポールです。ハノイにマルミツベトナム工場を開設します。株式会社ニトリの生産のほとんどは海外です。そして現在、生産の拠点としてフル稼働しているのがベトナム工場となっています。

売上も好調です。2018年2月期から2022年2月期までの業績は右肩上がりで、2,395億円も上昇しています。緊急事態宣言など、難しい状況が続いていたはずですが、関係なく伸び続けています。もちろん、たゆまぬ企業努力の賜物であることは間違いありません。

最後に

似鳥昭雄氏は、アメリカ合衆国の研修から、未来を見据えて行動するようになります。将来こうなるから、世のため人のためにどうすればいいのか。志が高く、ビジョンが雄大になったからこそ、大きく変化して業績を伸ばしていったのだと思います。
これからは業界の垣根がなくなっていくと予想して、事業を多角化しています。日用品の販売や衣料も手掛けるようになりました。もちろん、常にあるのは顧客層の方々がより豊かになることを目指しているのはいうまでもありません。

私も情熱をもって仕事をして、自分のやっていることが常に顧客や世の中のやくにたっているかどうかを意識していきます。志は高く、より大きな成果が出せるよう精進します。