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実業家の考え方

世界のHONDAから学ぶ、技術の向上と後世へ語り継がれる考え方

本田宗一郎氏

世界のHONDA。
その創業者の本田宗一郎さんを知っている人は多いでしょう。

日本の技術を世界へ!
1980年にアメリカを超えて世界一位に導いた、日本自動車界が発展した原動力となる実業家です。

そんなHONDAを一代で大企業へと築き上げた、天才技術者本田氏の実業家としての始まりといまも残っている本田氏の考え方についてお伝えします。

1906年静岡県で生まれた本田氏は、16歳のころアート商会という車の修理工場に入社。
加治工の父親の影響で修理する技術に長けており、21歳でアート商会浜松支店を任されることとなります。
それがのちに日本の技術大国のいしづえとなる”技術者本田宗一郎”の信念が生まれていきます。

修理業から製造業へ!技術者本田宗一郎の始まり


出典: まず、本田宗一郎。初めから『つくる喜び』の人 / 1936

どこがどうなっているのか頭のなかにインプットされているから、ほかの人が直せないものでも本田なら直せる。
修理技術に関して、本田の右に出るものはいないと言われてきた。

外国車に関しても、日本にない部品なら作ればいい。
できるかわからないけど、できるようにやる。
困難な要求でも、お客様からの依頼はすべて受け入れてきた本田の考えである。

本田の技術に対する信念はすごいと思わせるエピソードがある。
修理業だけで飽き足らなくなり、製造業まで着手し始めた。
いままで独学で修理業をやってきた本田だが「いまの知識のままでは通用しない。もっと製造について学ぶ必要がある」と、31歳で浜松高等工業(現、静岡大学工学部)で聴講生として通うことに。
結果、ピストンリングの製作ができるようになり、トヨタに納品するほどに成長。
会社を軌道に乗せていったのである。

補助エンジン自転車で世の中への貢献


出典: 初の市販製品・Honda A型 / 1947

次に本田が取り組んだのが、乗り物の動力となるエンジンである。
そのステップとして本田技研工業株式会社を設立することにした。

本田の飽くなき挑戦は続く。
まず着手したのが、はエンジンを使った補助エンジン付き自転車である。
現代では電動自転車が普及しているが、当時初めてエンジンで動く自転車が発表され画期的な乗り物であった。

なぜ車じゃなかったのか?と思う人もいるかもしれないが、当時の日本人の移動手段のほとんどが自転車であったから。
世間のニーズをしっかり把握し、世の中の人への貢献を本田は大事にしていた。
それが今のHONDAにも残っている。

本田氏が大事にしてきた3つの喜び


出典 : そして、『社是』が生まれた / 1956

本田技研工業株式会社設立時に本田が社員に伝えたモットーがある。

それは「作る喜び、売る喜び、買う喜び」という3つの喜びである。

技術者が作った製品は、それを取り扱う代理店、そして購入するお客様と製品を作るだけではなくその先に受け取る人がいる。
とくに本田が大事にしていたのは、お客様に喜んでもらえるような商品を作ること。
この商品買ってよかったな!と言ってもらえるのがつくる喜びであり、技術者として大事にしてほしいことです。

目先の数字にとらわれず、お客様ファーストという創業時の本田の考えが生きているから、技術のHONDAとしていまもトップを走っているのでしょう。

先にあるものを考えて仕事をすることが大事

いまも残る本田氏の考えは、製造業に関わるかたすべてに通用することだと思います。

製造することに夢中になり、自分なりにいいものができあがっても実用性がなければ意味がありません。
本田氏が技術者から実業家になっても大事にしてきたのは、最後にお客様がいるのを考えて仕事をすることです。

なんのために頑張っているのだろう?と思ったときに、先にいるお客様のことを考えてみるときっといいものができあがるのではないでしょうか。